非局所性の哲学

ベルの定理が示す「即時的な相関」:因果律と情報の限界への哲学的問い

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量子世界に潜む「即時的な繋がり」の謎

私たちの住む日常の世界では、ある出来事が別の出来事を引き起こす際、その影響は光速を超えて伝わることはありません。例えば、地球で何かを操作しても、その情報が瞬時に火星に届くことは物理的に不可能であるとされています。これは、物理現象が必ず局所的(近接した場所からしか影響を受けない)であり、情報が伝わる速度には上限があるという、私たちの常識的な「因果律」の理解に基づいています。

しかし、量子力学の世界では、この常識を揺るがす奇妙な現象が存在します。それが「量子エンタングルメント」、通称「量子の絡み合い」です。そして、この絡み合いの性質を巡る議論に決定的な結論をもたらしたのが、物理学者ジョン・S・ベルが提唱した「ベルの定理」です。この定理は、私たちの世界の根源的な構造、特に「非局所性」と「実在」に関する深い哲学的問いを投げかけます。本記事では、ベルの定理が示唆する「即時的な相関」が、因果律や情報伝達の限界にどのように関係するのかを、数式を用いることなく、その哲学的な含意を探求します。

量子エンタングルメントとは:絡み合った運命の粒子

量子エンタングルメントとは、二つ以上の量子が、たとえどれほど離れていても、互いに密接に「絡み合っている」状態を指します。一方の量子に何らかの観測を行うと、もう一方の量子の状態も瞬時に決定されるという現象です。

この状態を例えるならば、遠く離れた場所にそれぞれ一つずつ置かれた、特殊な特性を持つ一組のコインを想像してみてください。これらのコインは、片方が必ず表になるならもう片方は必ず裏になる、あるいは両方が必ず同じ面を向く、といったように、その結果が常に相関しています。しかし、そのコインがどの面を向くかは、実際に観測するまで予測できません。そして、片方のコインを観測して「表」が出たと分かった瞬間、もう一方のコインも即座に「裏」であることが確定します。この「即座の確定」が、古典的な物理学の常識とはかけ離れた量子エンタングルメントの特異な点です。

アインシュタインはこの現象を「不気味な遠隔作用(spooky action at a distance)」と表現し、局所性という物理学の根本原理に反すると考えていました。彼は、粒子が離れた場所でも瞬時に影響し合うのではなく、あらかじめ何らかの「隠れた変数」によってその結果が決定されているはずだと主張しました。

ベルの定理の登場:隠れた変数理論への挑戦

アインシュタインが提唱した「隠れた変数理論」とは、量子力学が未だ知り得ない何らかの物理的な特性(隠れた変数)が、粒子の振る舞いを決定しているという考え方です。もし隠れた変数理論が正しければ、量子の「絡み合い」は、観測によって初めて状態が決まるのではなく、最初から定められた運命に従って展開する、と解釈できます。

しかし、ジョン・S・ベルは1964年、この「隠れた変数理論」が満たすべき数学的な条件を導き出しました。これが「ベルの不等式」です。ベルの不等式は、もしこの世界が局所的であり、かつ何らかの隠れた変数によって粒子の振る舞いが決定されている(すなわち「局所的実在論」が成立する)ならば、エンタングルした粒子の相関の強さには特定の限界がある、と示しています。

もし、実際の実験結果がこの不等式の限界を超えた相関を示すならば、それは局所的な隠れた変数理論が誤りであることを意味します。つまり、粒子はあらかじめ決定された運命に従うのではなく、そして即座に影響し合う現象(非局所性)が実際に存在することを示唆するのです。

実験による検証:ベルの不等式の破れ

ベルの定理が発表されて以来、多くの物理学者がその検証に取り組みました。特に、1982年にアラン・アスペが行った実験は有名です。彼は、エンタングルした光子を用いてベルの不等式が予測する相関の限界を測定しました。その結果は、ベルの不等式によって示される古典的な限界を明確に超えていたのです。

その後の実験も、より精度の高い条件下でベルの不等式が破れることを繰り返し確認しています。これらの実験結果は、私たちの住む宇宙が、私たちが直感的に理解しているような局所的実在論の世界ではない可能性が高いことを強く示唆しています。つまり、量子は遠く離れていても、何らかの形で「即時的」に相関している、ということです。

因果律と情報の限界:非局所性と超光速通信の幻想

ベルの定理と実験結果が示す非局所性は、古典的な因果律に大きな問いを投げかけます。ある事象が原因となり、その結果が伝播する際には時間が必要である、という因果律の原則が、即時的な相関の存在によって揺らぐように見えるからです。

しかし、ここで重要なのは、この非局所的な相関が決して「超光速通信」には利用できないという点です。これは「ノースーパーリミナルシグナリング(No-Signaling)定理」として知られています。例えば、エンタングルしたコインの片方を観測して「表」が出たとしても、それは単なる確率的な結果であり、観測者が意図的に「表」を出させることはできません。観測者ができるのは、すでに絡み合った運命の片方を確認することだけです。

もし地球の観測者が、エンタングルしたコインを操作して火星にいる観測者に任意のメッセージを送ろうとしても、それは不可能です。なぜなら、地球での観測結果はあくまでランダムであり、そのランダムな結果から火星の観測者がメッセージを読み取ることはできないからです。

つまり、非局所的な相関は存在するものの、それを通じて情報やエネルギーを光速を超えて伝達することはできません。私たちの知る因果律の最も基本的な側面、すなわち「原因が結果に先行し、情報は光速を超えて伝わらない」という原則は依然として保たれているのです。この事実は、非局所性が古典的な直感とは異なる、より深いレベルでの世界の繋がりを示唆していることを意味します。

哲学的考察:世界の根源的な繋がりとは何か

ベルの定理とそれに関連する実験結果は、単なる物理学の発見に留まらず、私たちの世界の根源的な構造や存在のあり方に関する深い哲学的な考察を促します。

  1. 実在の問い: 局所的実在論が否定されたことにより、「実在」とは何かという問いがより複雑になりました。観測するまで存在が確定しない、あるいは離れた場所の粒子が即座に相関するという事実は、私たちの日常的な「物事がある」という理解を再考させるものです。物理学者のニールス・ボーアは、量子現象を全体として捉える必要性を強調し、個々の粒子が観測される前の明確な性質を持つという考え方に異を唱えました。

  2. 因果律の再考: 超光速通信は不可能であるにもかかわらず、非局所的な相関が存在するという事実は、因果律が私たちの世界の物理法則においてどのように機能しているのかを深く考察する必要があることを示しています。これは、局所的な因果律という古典的な枠組みを超えた、より広範な因果関係の理解を求めるものです。

  3. 情報の本質: 非局所的な相関が存在しながらも、それを使って情報を送れないという事実は、物理学における「情報」の概念そのものに新たな光を当てます。情報とは、単にデータの配列だけでなく、それが物理的なシステムを通じて伝達され、意味をなすことと深く結びついているのかもしれません。

ベルの定理は、アインシュタインが抱いた古典的な直感と、量子論が描き出す奇妙な世界観との間の溝を明確にし、後者の優位性を示しました。しかし、その意味するところを完全に理解するには、物理学と哲学が協働してさらに深く探求していく必要があります。私たちの宇宙は、私たちが想像するよりもはるかに豊かで、そして深く絡み合っているのかもしれません。